リベラル聖書理解とウエストミンスター信仰告白

特別啓示と聖書。

 

 神様は、神様と人間と世界とを知らせるために、特別啓示を行いました。

それがイエスキリストによって語られた神の言葉です。それが聖書です。

救いの中心がイエスキリストであるように、啓示の中心もイエスキリストです。

 

それは神の御子によって、つまりイエスキリストによって語られた内容が

特別啓示であり、最終的なものである、ということです。

 

この特別啓示によって、人間が何をしなければならないかをはっきりと語っています。

 

ヘブル書 1章1-3節です。ここには、一般啓示と特別啓示について、書かれています。

一般啓示には、人間に必要な神のみむねは含まれていません。

自然啓示は、神様の創造のみわざとその栄光が示されている、という現実です。

私たちは、この自然世界を探求すればするほど、神様の創造のみ業が偉大であるか、ということが

分かります。そしてまた私たちには、どうしても、宗教心というものが、生まれつきあって、

その宗教心から、どのような民族でも、そういう宗教心を持って生きているのです。

それは神様のやはり創造の業であり、人間に、そのような宗教心を持つように植えつけたとも

いえます。このことをとても強調したのが、カルヴァンでした。

 

 しかし、宗教一般では、さまざまな想像によって、いろいろな神々が考えられてしまいます。

それは人間が罪によって、誤った神々を考えだすということが、まさに何よりも神の啓示であり、

なおかつ、正しい神様へ行かないところに罪の現実が示されています。また、人間の理性とか

良心も、また神様の自然啓示です。神様の創造の御業を示しています。

 

 このように、ウエストミンスター信仰告白では、こうしたことを的確に語っているのです。

リベラルの聖書理解、そしてイエスキリストの理解は、大きくウエストミンスター信仰告白から

逸脱をしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖書学の自由主義の主張の一つ

聖書学における自由主義について

 

 自由主義として、もっとも中心は、キリスト教2000年の歴史を否定してしまいます。

まず、キリスト教というのは、よくない、という前提があります。その上で、どういうふうにこれを

攻撃するか、というと、それは、まず、聖書です。聖書がキリスト教のよって立つところなので、

聖書を否定します。

 聖書を否定する、最初の出発点は、聖書に書いてあることは、これは、実際の歴史とは違っている、ということです。そして何よりも、現在のキリスト教が教えている内容は、原始キリスト教団の中のパウロとその一派が作り出したドグマから成り立っている、という想像を前提とします。

 原始キリスト教団に、派閥争いがあり、その中のパウロ派と、エルサレム派と、その他異端と呼ばれるいろいろなグループがあったのだと想定します。そしてその中で、外国人宣教を中心とした、いわば異邦人キリスト者のグループが、中心がパウロやルカですが、この派が勝利をしてキリスト教が生まれたとします。

 

 その神学が、贖罪の神学であり、キリスト教の中心の教義であるわけですが、これが、パウロ派によって形づくられたと考えます。そして2000年にわたり、この教義が支配をしてきたと考えます。その贖罪の神学は、イエスキリストの十字架の死と復活によって、示されたと言うのです。

 このパウロの考えから生まれたパウロ派神学が、キリスト教を生み出したと考えます。

そして、聖書の外側は、まず聖書とは違った歴史があったのだと考えます。そして聖書の

中にも、実は、パウロたちとは違う神学的思考があったのだと考えるわけです。

 その中心は、なんと言っても、そもそもパウロと伝統的なキリスト教が当然のごとく認めているイエスキリストが、まず、罪の贖い主として、十字架で死んでよみがえった、という歴史的事実を否定します。こういうことはなかった。実際のイエスは違うことを教えていた。神の子ではないのだ、ということを主張します。

 聖書の一部には、パウロの主張とは、異なる教えが入っているから、それを上手に取り出す

ことが出来るはずだと考えました。

 そしてパウロの教えについて、批判的な教えがいろいろなところに、、見え隠れすると言います。

 結局、現在のキリスト教がけしからん。このキリスト教は、パウロというい人が作ったのだ。

そして今まで、2000年間、ギリシャ正教も、カトリックもアウグスチヌスも、トマスアクイナスも

ルターもカルヴァンも、みな間違っていた。

 そもそもイエスキリストは、キリストではない。ナザレの人間イエスで、せいぜい、差別撤廃論者、人権擁護者、そういう人物であって、十字架で死んでよみがえった救い主神の子であるとは認めないのです。そして聖書がそういうことを語っていることを、すべてこれは、パウロ派の

でっちあげである、という認識をします。